【 天山広吉 】猛牛完全攻略ガイド

選手名鑑

第3世代のレジェンドの一人、天山広吉。

今でこそ、優しさと包容力で溢れんばかりの人の良さが出ているが、その昔は猛牛と言われる戦士だった。全盛期のキャリアと、数えきれないほどの実績、そして天山選手を襲った困難は、激動の新日本プロレスの歴史の忘れられない記憶となっている。

今回は、そんな天山選手のキャリアを振り返ってみよう。オーケー!カマーン!

天山 広吉

猛牛
団体新日本プロレス
ユニット本隊
生年月日1971/3/23 ( 53 才)
出身地京都府/京都市
デビュー1991/1/11 ( 33 年)
デビュー戦エル・サムライ
得意技アナコンダバイス、モンゴリアンチョップ、アナコンダマックス、TTD、ダイビングヘッドバット
身長183 cm
体重115 kg
血液型O 型
入場曲テンザン〜時空〜
Twitter@TENZAN323
好きなものツムツム、ディスニーランド、千鳥、サンドウィッチマン、伊勢エビ、無限キャベツ、パチンコ、妖怪ウォッチ

天山 広吉のパラメータ

総合点 38/60点

今は「いい人キャラ」が滲み出てしまっている天山選手。彼のレスラーとしての全盛期は2006年頃。新日本プロレスがちょっとした暗黒期になっていた頃である。

全盛期の天山選手はただものではなかった。パワーはもちろん、どれだけ技を食らっても立ち上がってくるタフネスさもあった。そして、その分厚くぶっとい体から繰り出されるムーンサルトプレス。本人もどこに着地するかわからないという恐ろしい技だ。さらには、この体で場外へのムーンサルトアタックまで見せる。今でこそヘビー級の選手が場外にダイブすることも増えてきたが、2000年当時にこの技を見たときの衝撃は、iPodと同じくらいの衝撃を世の中に与えた。

オリジナルのフィニッシュ技も多く持っている。アナコンダバイス、TTD(テンザン・ツームストン・ドライバー)、アナコンダ・スラム、テンザンプレス等の締め技、投げ技、飛び技がある。打撃技も豊富で、モンゴリアンチョップ、天山チョップ、ヘッドバッドを駆使する。天山選手は「頭蓋骨が常人の2割増しで厚い」とも言われている。ヤングライオン時代は、おでこに爪楊枝を刺すことを特技にしていた。

オリジナリティは技だけではない。独特のムーブや外見も唯一無二だ。ブレーンバスターをするときは、「カマーン!ブレーンバスター!」と技の名前を叫び、モンゴリアンチョップを打つ時は「シュー」と言う。天山選手がリングにいるだけで会場中から「シュー」「シュー」と異音が鳴り響く。初めて会場で「シュー」を体験したときは、何かのガス漏れが起きているのかと思った。外見もオリジナリティが強い。天山ヘアスタイルは30年近くずっと変わらないし、天山選手以外にしている人はいなかった。だが、今は大岩選手が天山ヘアスタイルを継承しようとしている。

そんな魅力満載の天山選手。とにかく入場曲「時空」がカッコいい。レスラーの入場曲はカッコいい曲が多いが、天山選手の入場曲は別格。哀愁を帯びた壮大なイントロから、一気に疾走感溢れるメロディに変わる瞬間、猛牛の雄叫びが今にも聞こえてきそうだ。そんな天山選手のパラメータ「入場曲」はMAX10だ。

天山 広吉の必殺技『モンゴリアンチョップ』

天山 広吉のムーブ

技のムーブ

  • モンゴリアンチョップの前に「シュー」と音を出す
  • ブレーンバスターの前に「カマーン!ブレーンバスター!」と叫ぶ

迷言

節子って誰が出てくるんですか?

すし屋に連れて行ってもらい、お品書きの「筋子」という文字を見た際。

先月までの最新試合結果

※新日本、スターダムでの試合限定
2024.9.14 登別総合体育館
海野 翔太
VS ザック・セイバーJr.
藤田 晃生
村島 克哉
田口 隆祐
嘉藤 匠馬
フランシスコ・アキラ
ユーマ24
飯塚 高史
TAKAみちのく
天山 広吉
タイチ
タイガーマスク
DOUKI
金丸 義信
SHO
SANADA
邪道
斗猛矢
本間 朋晃
0:34:41 オーバー・ザ・トップロープ
2024.9.9 後楽園ホール
天山 広吉
村島 克哉
VS ザック・セイバーJr.
藤田 晃生
0:07:50 クラーキーキャット
2024.8.19 両国国技館
天山 広吉
小島 聡
田口 隆祐
VS タイガーマスク
嘉藤 匠馬
永田 裕志
0:08:13 オーマイ&ガーアンクル

天山 広吉の年表

年月日できごと
1991.1.11新日本プロレスでデビュー
1993.3.23天山広吉がヤングライオン杯で優勝
1993.6.3海外武者修行でCWAに参戦
1995.1.4凱旋帰国しリングネームを「天山」に変更
1995.2.12蝶野正洋、ヒロ齋藤と「狼軍団」を結成
1995.6.12蝶野、天山組が第25代『IWGPタッグ王者』初戴冠
1995.10.30蝶野、天山組が第5回『SD TAG LEAGUE』初優勝
1997.11.1『狼軍団』が『nWo JAPAN』として活動開始
1999.1.4天山、小島組が第36代『IWGPタッグ王者』初戴冠
2000.1.4天山、小島、ヒロ齋藤が『TEAM 2000』に加入
2001.12.11天山、小島組が『2001 G1 TAG LEAGUE』優勝
2003.8.17天山が第13回『G1クライマックス』初優勝
2003.10.30天山、西村組が『2003 G1 TAG LEAGUE』優勝
2003.11.3天山が第33代『IWGPヘビー級王座』初戴冠
2004.8.15天山が第14回『G1クライマックス』2連覇
2006.8.6天山が第16回『G1クライマックス』3度目の優勝
2006.10.2天山、真壁、越中が『G・B・H』を結成
2007.10.8天山が後藤洋央紀の牛殺しで頸椎を損傷し長期欠場
2008.2.17天山が『G・B・H』追放
2008.11.5天山、小島組が『2008 G1 TAG LEAGUE』2度目の優勝
2008.12.8小島、天山が『世界最強タッグ決定リーグ戦』初優勝
2008.12.29網膜剥離のため長期欠場
2009.8.14脊椎管狭窄症および右肩亜脱臼により無期限の欠場
2011.9.11天山、小島組が第58代『IWGPタッグ王座』戴冠
2011.9.27新日本に復帰した小島と天山が「テンコジ」再結成
2014.4.6小島、天山が第75代『NWA世界タッグ王座』初戴冠
2017.3.6天山、小島が第74代『IWGPタッグ王座』を戴冠し、天山が最多戴冠12回を達成
2021.1.30グレート-O-カーンとの「モンゴリアンチョップ封印マッチ」に敗れたが、翌月より使用

1971年、天山選手は難産の末に仮死状態で生まれた。2ヶ月間ずっと保育器の中で過ごした。そのため、幼い頃は体が小さく、大きい者、強い者にずっと憧れていた。学生時代にボディビルに打ち込み、1990年に新日本プロレスに入門。翌1991年にエル・サムライ戦でデビューを果たす。その後、ヤングライオン杯での優勝を皮切りに、天山選手のキャリアは大きく飛躍する。

海外武者修行でカルガリーで肉体改造を行い、1995年に凱旋帰国をするや否や、橋本真也の保持する「IWGPヘビー級王座」に挑戦。敗北をしたものの、当時の最年少挑戦記録(23歳9ヶ月)を打ち立てる。衝撃的な強さだった。その後、蝶野選手と「狼軍団」というスゴいネーミングセンスのチームを結成。劇的なヒールターンをし、一躍トップレスラーの仲間入りを果たす。橋本選手を「ブタ」、武藤選手を「ハゲ」とシンプルに罵倒する悪い奴になった。

そこからの天山選手は怒涛の活躍をみせる。「IWGPヘビー級王座」4回戴冠、「IWGPタッグ王座」12回戴冠、「G1 CLIMAX」優勝3回、「TAG LEAGUE」優勝4回。タッグでもシングルでもとんでもない大きな結果を残す。

しかし、2007年に天山選手のキャリアを曇らせる事件が起こる。後藤選手の牛殺しで頚椎損傷、欠場へと追い込まれる。そこからは不運の連続となる。2008年には網膜剥離で、2009年には脊椎管狭窄症で長期欠場。リングでも、自身が結成したヒールユニット『G・B・H』追放され、それを救出してくれた飯塚選手にも裏切られ、さらにタッグパートーナーの蝶野からも厳しい言葉を浴びせられる。天山選手は孤立し、ドン底に落ちていく。

2010年、復帰した天山選手は小島選手と抗争を繰り広げ、やがてテンコジタッグが復活する。しかし、時代はすでに棚橋・中邑が中心となっており、すぐにオカダ・内藤も台頭してくる。それでも、タッグ戦線では不屈の精神を見せ、2012年、2013年、2017年に『IWGPタッグ王座』を獲得。ケガさえなければ、シングルでももっと活躍ができていたに違いない。『IWGPタッグ王座』は最多戴冠数12回を記録している。そして、累計保持期間はなんと1990日。小泉純一郎の内閣総理大臣在職日数1980日を上回る。天山選手は小泉内閣より上なのだ。

だが、2013年には肋骨骨折で欠場、2019年には膝の手術、2022年にも右膝負傷、2023年末に膝の手術により欠場している。猛牛の体はもう全身ボロボロなのだ。復帰するたびに、分厚かった体は細くなってしまい、かつての動きもできなくなってしまっている。それでも、彼は立ち上がり戦い続ける。

2023年9月9日には、オカダ&棚橋&石井の保持する『NEVER無差別級6人タッグ』のベルトに挑戦した。これからも何度も蘇っては、その生き様を見せつけてくれるだろう。オーケー!カマーン!

天山 広吉の全対戦成績

年別の勝利数、敗北数、引分数、勝率の推移。
TotalWinLoseDrawRate
199911008693055%
※集計期間:2007/5〜2024/9の新日、STARDOMの試合
合計試合時間429:39:17
平均試合時間 0:12:53

メインイベント回数の推移

年別のメインイベントの回数、メインイベント率をグラフ化。
メインイベント率が高いほど、メインイベンターとして重宝されている。
Main CountMain Rate
45322.7%

フィニッシュホールドTOP5

天山 広吉選手のフィニッシュホールドを集計してランキング。
RankFinishCount
1アナコンダバイス127
2TTD107
3反則55
4ダイビング・ヘッドバット43
5ムーンサルトプレス36

データ集計が、公式ページの2007年からのため、レジェンド天山選手の対戦成績の全貌を知ることはできない。天山選手のキャリアの後半部分のみになる。

欠場が続いた2007年から2010年までの期間、試合数は自ずと少なくなっている。そして、復帰後の勝率は2014年に一時的な輝きを見せるが、その後は徐々に降下の一途をたどる。2018年には、戦いの場から遠ざかるかのように試合数も半減してしまう。この数字から、時の流れとケガと戦う天山選手の姿が浮かび上がる。

フィニッシュホールドは、アナコンダバイスの104回がトップ。そして、2位にランクインするのは「反則勝ち」。しかも「反則勝ち」55回のうち、なんと53回が飯塚高史選手との試合となる。この二人の抗争がいかに異様だったかがわかる。反則の多くは「アイアンフィンガー・フロム・ヘル」。タイチ選手が特級呪物として扱うのもうなずける。

天山 広吉のシングルマッチ勝率

シングルマッチの年別の勝利数、敗北数、引分数、勝率の推移。
TotalWinLoseDrawRate
237129100854.4%
※集計期間:2007/5〜2024/9の新日、STARDOMの試合
合計試合時間52:43:16
平均試合時間 0:13:20

天山 広吉のシングル対戦TOP5

天山 広吉選手とシングル対戦数の多い順でランキング。
RankPlayerRate
1真壁 刀義1485157.1%
2飯塚 高史14102271.4%
3棚橋 弘至1156045.5%
4中西 学1053150%
5蝶野 正洋1055050%

天山選手のシングルマッチの回数は、2011年に19回行われているのがピークだ。それ以降は、「G1 CLIMAX」に絞られていく(2013年はG1途中欠場)。2016年に、盟友・小島選手からG1出場権を譲り受け、G1からも卒業。その後はシングルマッチは、ほぼ行われていない。

こちらの集計にはないが、ヤングライオン時代も含めると、いちばんシングル対戦が多いのは、西村修、小島聡と47回。天山選手の長いキャリアの中でも最も多い2人だ。

そして、やはり飯塚選手との確執。試合結果の内訳を見ると、やはりその異様さが際立ってくる。天山選手が大きく勝ち越しているものの、11試合中、反則4回、ノーコンテスト1回、両者リングアウト1回、レフェリーストップ1回、KOが1回。まともに勝負がついたのは、アナコンダバイス1回、アナコンダクロス2回の、たったの3回となっている。

天山 広吉のタッグマッチ勝率

タッグマッチの年別の勝利数、敗北数、引分数、勝率の推移。
※2人タッグのみの成績
TotalWinLoseDrawRate
6923862911555.8%
※集計期間:2007/5〜2024/9の新日、STARDOMの試合
合計試合時間151:56:25
平均試合時間 0:13:10

天山 広吉のタッグパートナーTOP5

天山 広吉選手とタッグ組んだ回数順に、タッグパートナーをランキング。
※2人タッグのみの成績
RankPlayerRate
1小島 聡25015784562.8%
2蝶野 正洋705711281.4%
3西村 修502718554%
4中西 学21156071.4%
5永田 裕志18135072.2%

タッグでの天山選手の活躍は、2016年ごろまで続いている。大きな怪我をしながらも、デビューから25年経過し、ピークを迎えている。「テンコジ」で初めて『IWGPタッグ王座』に輝いたのが1999年。最後に「テンコジ」で戴冠したのが2017年。18年間もタッグの頂点に君臨し続けている。伝説的なタッグと言っていい。

タッグパートナーは、もちろん小島選手がダントツでトップ。なんとその数216回。デビューから2人タッグ以外の共闘を含めると、その回数はなんと900回を超える。同じく1999年に始まった「科捜研の女」も全254話。900回には遠く及ばない。テンコジタッグは、沢口靖子&内藤剛志のドモマリコンビより上なのだ。

そして、そんなテンコジよりも勝率がいいのが、なんと飯塚選手とのタッグである(2007年以降の集計)。集計数は少ないものの、1敗しかしていないのは驚異的である。この二人にしかわかり得ない、深い愛と憎しみがありそうだ。

天山 広吉 ベストバウト

天山選手が本当の意味で限界まで戦った試合を紹介。

▼天山広吉 VS 小島聡
2005.02.20 両国国技館『IWGPヘビー級&三冠ヘビー級選手権』

天山 広吉 関連グッズ

リングの記憶 第三世代
リングの記憶 第三世代
天山広吉×小島聡×永田裕志×中西学!仲間として、ライバルとして同じリングでしのぎを削った『第三世代』の4人がデビューから現在まで、各々の戦いの歴史を振り返る。彼らの言葉から浮かび上がる新日本マットの真実とは?
モンゴリアンチョップ!
モンゴリアンチョップ!
“ぶっ壊し系アイドル”P.IDLのファースト・アルバム。こんな歌あったんだ!

まとめ

天山選手のレジェンドぶりは伝わっただろうか。

凱旋帰国して一躍トップの仲間入りを果たした天山選手。シングルでもタッグでも多くの実績を残したものの、キャリアの後半はケガとの戦いが続いている。

しかし、多くのケガと戦いながら、何度も立ち上がる。全盛期の体からどんなに細くなっても、どんなに動きが悪くなっても、彼はリングで戦い続けている。それが天山選手の生き様なのだ。オリジナリティ溢れる風貌と、ギャップのある癒しキャラに多くのファンが声援を送り続けている。これからも現役の姿を見せ続けてほしい(無理せず)。

それでは、一緒に素晴らしきプロレスライフを!